罪と戦う
2023年3月26日 礼拝
自分が罪深い人間である事はわかっていた。それでも、聖書を読み・御言葉に触れ・教会に行き・牧師や兄弟姉妹と時間を共有する中で罪に対して油断し、傲慢になっていた気がする。そんなだから罪に誘惑されるのだと思う。またまたChatGPTに聞いてみた。(私のChatGPTには、聖書の中のイエス様として振舞って欲しいと伝えています。)
~抜粋~
(罪の誘惑に打ち勝つ事は)非常に難しい課題の一つです。聖書には、自己制御や慎み深さ、そして道徳的な責任を果たすことが重要であると記されています。しかし、イエス・キリストは常に私たちを愛し、助け、慰めるためにそこにいることを約束しています。
(罪の誘惑に打ち勝つために)いくつかのことを試すことができます。まず、自己制御の実践を心がけましょう。自己制御とは、自分の欲求や衝動をコントロールし、自己規律を保つことです。自己制御を実践するためには、禁欲や断食、瞑想などの実践を取り入れることが有効です。
最後に、神とのつながりを強化することも大切です。祈りや聖書の研究、礼拝などを通じて、神とのつながりを深め、力を得ることができます。
神に祈り、神に委ねる。まずは、これからやっていこうと思う。
私に足りなかったもの
2023年3月8日 礼拝
私は最近の祈りで「私の心を探り、私のすべての罪を教えてください。」と祈っていました。すると、毎夜幼いころから今までの忘れていた自分の悪事を次々を思い出しました。その度に、祈りの中でそれを懺悔し、許しを請うていました。ところが、ここ数日は思い出すことがなく、もしかしたら概ね新たに懺悔する必要がある罪を出し切れたのか?と思っていました。
今日の聖書クラス祈祷会の後、牧師を含む数人で立ち話をしていました。だんだんと人が帰っていき、私と牧師の二人だけ。それから2時間半くらい話込んでしまいました。
内容は最近思っていた事で、主にすべて委ねる難しさや、祈りに気持ちが入らないとか、パソコンの事とか、家庭の事とか色々と。お茶を飲みコーヒーを飲みナッツを摘まみながら。
そんな時にふと思い出したのは、以前はこういう話をする友がいた事。また、そういう友や様々な人たちとの縁をすべて断ち切って生きてきた事です。
自分の一番の罪は、この人たちとの縁を切って来たことではないか?
その日の夜の祈りで、その事を懺悔しました。そうすると何か心の穴が埋まっていくような感覚がありました。
牧師を友と呼ぶのはおこがましいと思いますが、何かそういう存在がいる事が私には必要だったのではないと思っています。
それを気づかせていただいた日でした。
教会で出会う兄弟姉妹とも繋がりを深めていきたいと思います。パソコンの話は流石に皆さんは興味無いと思いますので控えますが。
聖書というアプリで、読書プランというものを選んで、テーマに沿った日々の聖句を読むことが出来るのですが、そのプランの一つに「危険な祈り」というのがあります。「私の心を探り、私のすべての罪を教えてください。」はそれの受け売りです。お勧めします。覚悟は必要ですが。